「諏訪古事記 その8」

中世の諏訪はなかなか壮絶だっようで、上社の諏訪家も下社の金刺家も武士として力を誇示していた時代があり、鎌倉幕府滅亡前は北条家と共に戦ったり、室町幕府が成立すると反足利の諏訪家は南朝に従ったりで、縄文や弥生から受け継がれてきたミシャグチ神やソソウ神への信仰はその時代どうなっていたのでしょうか?
諏訪明神が武神として崇められたために、祭祀を司って神を自身に宿す立場の大祝(おおはふり)までもが戦いに明け暮れた結果、諏訪家も金刺家もまるで寺侍のようになってしまったわけです。
はたしてそんな時代も御柱は建て替えられていたのかハナハダ疑問があります。
御柱祭は1200年の歴史を持つといわれていますが、そのあたりはどうなんでしょう。

「諏訪大社が諏訪家の支配から自由になった江戸時代に、諏訪大社の祭祀が前にも増して盛んになり、17世紀末から諏訪大社の神事を代表する御柱祭が盛り上がりをみせるようになった」
(「諏訪大社と武田信玄」武光誠著、青春出版社)
とあるように、御柱祭は江戸時代の途中17世紀終わりごろから盛んになったようですが、それまでは途絶えていた時期もあったのか、それとも細々と続けられていたのか、この文章からだけでは判断できません。

中世の諏訪ではこんなこともありました。
諏訪家の武士化が激しくなった15世紀のころ、諏訪家の中でも武装して領土合戦に兵を出して戦う側と、神々の祭祀をおこなう側とに分かれました。
諏訪家当主の信満は戦う部隊の惣領家に、信満の弟で頼満は祭祀を担当する大祝家として役割分担がなされ、領土まで宮川をはさんであっちとこっちに分断しました。
本来は祭政一致であるべきところですが、政教が完全に分離したわけです。
それでもそれぞれの役割分担がうまくいっているうちは良かったのですが、やがて惣領家と大祝家の反目が激しくなってきました。

大祝家は継満(頼満の次男)の時代になっていましたが1483年1月8日のこと、継満は惣領家の当主政満(信満の長男)や政満の弟の小太郎、政満の嫡子で宮若丸らを前宮の神殿に呼び出し、酒に酔わせて彼らを殺害してしまいました。
大祝の神聖なる神殿内で身内を殺して神殿も穢すという前代未聞の不祥事です。

その後、継満は諏訪家の統一をもくろみるも、彼の呼び掛けに応じる者はほとんどおらず、結局は高遠に逃げました。
高遠といえば桜が有名ですが、高遠家は諏訪家の分家であり、継満の妻が高遠家の当主高遠継宗の妹だったためのことです。

すると混乱を極める上社諏訪家の領内に、今度は下社の大祝である金刺興春(おきはる)らが侵入して来ました。
ですが諏訪家の配下である矢崎政継が金刺家を阻止したことで、金刺興春は戦死。
そして次は諏訪家の勢力が金刺家の領内に攻め入って、まぁなんてことでしょうか、諏訪大社の下社を焼き払ってしまったんです。
それがきっかけで金刺家の力は衰えていき、1518年に金刺家は諏訪家によって滅ぼされました。

1540年、諏訪家の頼重が武田信虎の娘である禰々と結婚しました。
武田信虎は武田信玄の父なので、禰々は信玄の妹であり、なので諏訪頼重にとって信玄は義理の兄ということになります。
ところが諏訪頼重は祭祀をおろそかにして上杉軍と戦ったり、大凶作で諏訪の人々が食料不足に苦しんでいてもなお出陣する姿に信玄の怒りは頂点に達し、1542年に入るとついに諏訪へ向けて兵をあげ、とうとう諏訪家を滅ぼしてしまったんです。そしてその年の10月20日、諏訪頼重は甲府で自害しました。

武田信玄は篤く諏訪明神を信仰しており、信玄の登り旗には
「南無諏方南宮法性上下大明神」
と書かれています。(諏方とはもちろん諏訪のことです)
問題は、この諏訪大明神とタケミナカタは関係ないということで、信玄も信仰していたのは諏訪大明神であって、タケミナカタではないと思います。
いつから諏訪大明神とタケミナカタがイコールとして考えられるようになったのか、それが諏訪の歴史を糺すための鍵になってきますが、今回はこのへんで。