「遷都信濃国 vol.30」

このコーナーは天武天皇がナゼ陪都先に信濃を選んだのかを追求することが目的でしたが、その答えとしては優秀な馬の確保、それに天文遁甲や陰陽五行によって個人的に導き出したであろうことが主な理由との結論に達したため、主流を「諏訪古事記」に移しました。
ただし、東国(関東や東北方面)への拠点として信濃を陪都先に選んだことも主な理由のひとつならば、今後の古代史の解明次第では面白い展開になるかもしれません。

とはいえ天武天皇への追求はそのまま続いておりまして、それは「天武天皇って誰?」という超根本的な疑問です。
日本書紀に書かれているような、天武は天智の弟という話なんぞはハナッから信じちゃいませんけど、だったら天武の正体は?
☆高句麗の蓋蘇文説
☆新羅の金多遂説
☆古人大兄皇子説
☆漢皇子説
☆その他諸説

天武天皇が誰なのかを考え始めると夜しか眠れなくなってしまい、だったらいいじゃねえかという話ですが、大陸からの渡来人だとしたら「天文遁甲(てんもんとんこう)」に詳しく、それにこだわった理由も納得できます。
ですが小林惠子(やすこ)著の「本当は怖ろしい万葉集」によりますと、日本(倭国)で生まれた大海人皇子(後の天武天皇)が海を渡り高句麗の葢蘇文になって、韓半島と日本を行き来していたとか、河内で生まれた額田王は政略結婚で新羅の武烈王金春秋の后になり、金春秋の死後は中大兄皇子(後の天智天皇)と共に日本へ戻って、さらに中大兄皇子は蘇我一族を滅ぼすための政略として額田王と大海人皇子と結婚させたとか。

埼玉県日高市の高麗(こま)神社で宮司をされてる第60代当主高麗文康氏の著書「陽光の剣 高麗王若光物語」はフィクションですが、天武や天智も登場しまして、天武の容姿についてそれとなく高句麗人であるような書き方がされています。
立場上それ以上は書けなかったのでしょうが、本文中に高句麗から倭国へ逃れてきた若光らが天武の顔付きや体格に驚くシーンがありまして、あれは著者からのメッセージだと思います。天武は倭人ではないと。
だだ、それが高句麗人なのか新羅人なのかは著書からは判断できませんでしたので、ぜひ聞いてみたいです。
10月に初めて高麗神社へ行ったところ年に一度の例大祭がおこなわれており、高句麗の文化に触れることができました。
(写真1、2。写真1の前列左から2番目が高麗文康宮司)

天武天皇はてっきり新羅の人だと思っていましたが、高句麗の人だったんですね。
いやいやまだ判りません。新羅の人かもしれないです。
天武天皇=金多遂説ですが、金多遂は新羅の武烈王として654年に即位した金春秋の側近で、やはり新羅の王族です。
金春秋と共に「質(人質)」として倭国に来たことになっていますが、人質というのは日本書紀の言い分で、実は監視団だったのでしょう。
それで金春秋は新羅に帰国していますが金多遂は帰った記録がないため、そのまま日本で大海人皇子になったというのが天武天皇=金多遂説です。
ある書によれば
「金多遂こそが大海人皇子(天武天皇)であり、近江の天智朝で副大統領のような地位にあった」
と推測されています。

天武が高句麗の葢蘇文であろうが新羅の金多遂であろうが、皇位を奪ったのは672年の壬申の乱でして、あれは近江の大友が兵を挙げて大海人皇子を叩こうとしたのではなく、大海人皇子のクーデターでしょう。それで天武天皇が誕生したんですね。

他にも古人大兄皇子説や漢皇子説もありまして、古人大兄皇子については以前このコーナーで取り上げましたが、古人も大海人(天武)も天智から逃れるために吉野へ身を隠しています。
けど、古人の吉野逃れはそれが珍しいことではないようにするためにありもしない吉野行きをでっちあげ、だから大海人が吉野へ逃げたことは特別なことではないんだと思わせる日本書紀の作戦だと思えてきました。
なので古人大兄皇子=天武天皇説は???です。

他にも天武天皇=藤原鎌足の息子説やその他にもたくさんあるため、引き続き調べてみますが、調べるほどに天武の悪人ぶりが見え隠れしてまいりました。

2015/10/19 12:02

2015/10/19 12:02

2015/10/19 11:50

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