「諏訪古事記 番外編その6」

雪のちらつく諏訪の奥山
切り倒されたモミの大木
いよよ来たりし厳しき冬も
春を想いて耐えしのぶ

雪溶け新緑めぶく春
ミハシラ山出し難所越え
諏訪の氏子の血が騒ぎ
いよよ祭りの幕が開く

皐月の空に木遣りが響き
モミの大木 社に曳かれ
そろそろここらでお別れだ
いよよミハシラここに建つ

雪のちらつく諏訪の奥山には来年の御柱祭用のミハシラが、すでに切り出されています。
上社(前宮・本宮)の場合、今回のミハシラは辰野町の国有林から切り出すため今も辰野の山の中にあり、そして下社(春宮・秋宮)は棚木場(たなこば)と呼ばれる曳行開始の場所に。
間近で見るとデカいです。
※写真1:下社の御柱群。
※下社2:秋宮一之御柱がやはり一番の迫力あり。

厳しい冬を耐えしのんで春を迎えると、いよいよ待ちに待った式年造営御柱大祭です。
もっとも太く長いミハシラは本宮一之御柱(上社)と秋宮一之御柱(下社)で、長さは18メートル。重量は10~12トンほどですが、ミハシラに氏子が大勢乗るので実際は15トンぐらいになるのではなかろうかと思います。
それを人力だけでドカドカと崖を落としジャブジャブと川を渡りゴリゴリと階段を登らせるのだから、諏訪の氏子は恐ろしい。
岡本太郎氏は御柱祭に感激すると同時にこうも言いました。
「諏訪にはキチガイがたくさんおる」と。
そうなんです。氏子さんたちは木落としが命落としになってもかまわないぐらいの意気込みで祭りに挑んでますので。

さて、今月(11月)3回目の諏訪行きは諏訪インターを通り越して甲府南インターまで行きました。
甲府南インターを出るとすぐ目の前に山梨県考古博物館がありまして、そのまわりは東山古墳群と称する古墳だらけの地区です。
そしてその中に山梨県最大の全長169メートル甲斐銚子塚古墳があります。

この銚子塚古墳ですが行ってみて驚いたことに、古墳のまわりに御柱を備えていたんです。
えーっ、何でなん?
後円部の縁に直径が20㎝程度、高さは3~4メートルでしょうか、杉のミハシラが建っていました。
発掘調査で見つかった杉のミハシラは地面に90㎝ほどまで埋められていたため、地上には3~4メートルは突き出ていたと予測されていますが、埋め方によっては6~7メートルのミハシラであっても不思議ではありません。※写真3。

諏訪の御柱祭が始まったのが1200年前からとは言われていても、柱を建てる起源は縄文時代や石器時代にまでさかのぼるであろうと考えてますので、古墳時代のミハシラで御柱の答えを導き出すには至りませんが、とても貴重なサンプルになりました。
というのも、甲斐銚子塚古墳の造営は4世紀です。
大和国で見つかっているミハシラやそれらしき木製品は5世紀以降のものらしく、前期古墳時代においてはほとんど例がありません。
また、甲斐銚子塚古墳ではミハシラと同じように他にも古墳の縁に建てたであろう木製品がたくさん出土しているため、当時は古墳のまわりに何らかの柱などをたくさん建て、祭祀に用いていたのでしょう。

東山古墳群では古墳時代以前の方形周溝墓なるミニ古墳群も存在していて、126基ものそれが一ヶ所に集まっていることは、縄文時代か、少なくとも弥生時代からこの地にはムラが存在していたのでしょう。
現在の数値ですが諏訪湖の湖面は標高759メートル。(ナゴヤ=758+1と憶えます)
なので諏訪は標高が759~800メートル程度の地区が多く、縄文遺跡がちっとも珍しくない八ヶ岳山麓は標高が900~1100メートルほどになります。
ところが東山古墳群は標高が250~300メートル程度で、あたりの見晴らしはいいし大きな川は流れてるし陽はサンサンと降り注いで何とも桃源郷のような土地で、縄文や弥生時代であっても暮らしやすかったのではと思いました。

それと、甲斐の国から見る信濃国は信玄でなくともむちゃくちゃ魅力的な土地であることが、よーく判りました。

2015/11/27 15:30

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2015/11/27 15:31

2015/11/27 15:31

2015/11/27 10:03

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