もし史実としての「壬申の乱」はなかったとしたら…………
少なくとも「大化の改新」はなかったようですし、日本書紀に記されているようなカタチで蘇我入鹿が殺害された「乙巳(いっし)の変」もなかったみたいですね。
それに663年、百済救済のため天智が2万7千の大軍を送った「白村江の戦い」も、実は660年に滅ぼされた百済の王族・貴族を迎えに行っただけかもしれないんです。
さて、どうしましょう。
白村江の戦いでは倭軍が唐・新羅連合軍に敗れた後、唐は高句麗に攻め入ったために倭国は唐に攻められずに済んだ。今まではそう教えられてきました。
けど実状は白村江の戦いの後、倭国は唐・新羅連合軍に占領されていたようで、唐・新羅連合軍GHQの最高司令官マッカーサーとして倭国に赴任したのが新羅の金多遂なのかもしれません。後の天武天皇です。(天武天皇金多遂説)
いや、唐の郭務棕がマッカーサーになるのかな。日本語読みでは”カクムソウ”ですが、本来は”カマソ”と読むようで、カマソは後の藤原鎌足(カマソ)らしいですけど、話を天武天皇に戻します。
天皇家の菩提寺である泉涌寺には歴代天皇の位牌が残されていて、しかし第38代天智天皇の次は第49代光仁天皇まで一気に飛び、次の第50代桓武天皇へと続いているのだそうです。
天智以前の天皇(当時は大君)の位牌もまったく残っておらず、第38代→第49代→第50代………となっているのは、天武系(天武天皇は第40代)の天皇が抹殺されているから、と考えられています。
そして残っているのは天智の血を引く百済系天皇ばかりであると。
日本書紀の記述が正しければの話ですが、消された天皇の中には天智の子とされる第39代弘文天皇(大友皇子)や、天智の娘の第41代持統天皇も含まれていて、だとすると排除されたのは天武系だけではなくなります。そもそも日本書紀は何度も改ざんされているので、弘文天皇も持統天皇も天智の子ではないのでしょう。
ではどうして第39代弘文天皇から第48代称徳天皇までの位牌がないのでしょうか?
実は元々そんな天皇は存在していなくて、実際に即位してたのは高市皇子とか草壁皇子とか長屋王とかだったとすると!
それを平安時代になり桓武以降の天皇が日本書紀を書き改ざんしてありもしない天皇を挿入し、実際に即位していた新羅系(ということは天武系)の天皇を葬り去ったとも考えられます。
天智以前の天皇はというとこれも同じで、日本書紀には推古だの斉明だのといった名前が出てますが、実は蘇我馬子であり蘇我蝦夷であり蘇我入鹿が天皇(大君)だったのかもしれませんし、それ以前の天皇(大君)も百済や高句麗や唐の歴史書を日本用にアレンジして日本(倭国)の歴史に挿入しているため、実際のところはどうだったのか判ったもんじゃありません。
「天皇系図の分析について 古代のアジア」(藤井輝久著、今日の話題社)によりますと、例えば蘇我入鹿が天智と鎌足に殺された「乙巳の変」ですが、新羅の歴史に「ヒドンの乱」というものがあり、それがまったく同じなんです。
首謀者の二人が正月に蹴鞠で出逢うところまで同じで、何してんねん。焼き直し以外のナニモノでもありませんです。スターウォーズのエピソードⅦ(最新作=第7話)がエピソードⅣ(第1作目=第4話)の焼き直でしかなかったように。
それで壬申の乱なんですが、660年に百済が滅んで663年白村江の戦いの後に唐・新羅連合軍が倭国を支配していますが、壬申の乱があったとされる672年には新羅が倭国から唐を追い出して新羅による単独支配を始めた年のようで、その首謀者が金多遂=天武天皇なのでしょう。
そしてその成り行きを物語にしたのが壬申の乱で、いかにも自分が被害者のような内容にしてあるため、今までどれだけの日本人が天武に同情したことでしょうか。真相は判りませんけども。
同書によれば天武天皇による信濃への陪都(副都造営)についても、高句麗人が多く住んでいた信濃を天武天皇が攻撃したことを、平安時代になってから百済人がぼかして書き換えたためにあやふやな話になってしまったとのことで、たしかに”束間の湯”なんていう温泉場を陪都にするなんて話には無理があるかもしれませんが、これも真相についてはまだまだ謎のままです。
天武天皇が即位すると専制君主として独裁政治が始まったことになってますが、それも唐を追い出して新羅の一党独裁を投影しているのでしょうか。
日本国の正史とされる日本書紀は平安時代に百済人が百済人のために書き換えた歴史書なので、それを正史としている国は百済新国と呼んだほうがいいのかもしれないですね