いよいよ6年に1度の諏訪大社式年造営御柱大祭yearになりました。
上社(前宮・本宮)では18の町内を8つに分け、それぞれの御柱を決める注籤(ちゅうせん)式が2月15日におこなわれるため、氏子さんたちの「本宮一之御柱」を狙った早朝願掛け参りが元旦から始まっています。
さて、今回はどこの町内が「本一(ほんいち=本宮一之御柱のこと)」クジを引き当てるのでしょうか。
1月28日(木)午前5時、諏訪の気温はマイナス8度。
この日は「四賀・豊田」地区の参拝に参加させていただきました。
「四賀・豊田」地区は前回2010年の御柱祭りで「前宮一之御柱」を曳き建てていますが、今回こそはと「本一」を狙って早朝から300人以上が集結されていました。
すごい迫力だ。(写真1)
諏訪四社(前宮・本宮・春宮・秋宮)の中では前宮の歴史がもっとも古く、本来の諏訪神であるミシャグチ神を祀っていた社なので、個人的には前宮一之御柱と前宮二之御柱が好きです。
ですから2月15日の注籤式で「前一」か「前二」を引き当てた町内の誰かに近づいてムリヤリ仲良くなり、一緒に御柱を曳かせてもらおうと企んでいます。
さて、雪は予想していたほど積もっていませんでしたが諏訪湖が全面凍結していまして、いよいよ御渡り(みわたり)が出現するかと期待しましたが、マイナス13度ぐらいまで冷え込まないと出ないんですって。(写真2・3)
御渡りは諏訪湖に氷の盛り上がりが三本現れてやっと認定されるため、どこか一本だけでは御渡りではないんだそうです。
三本とは、ほぼ南北に走る一之御渡りと二之神渡り、そして東西に走る佐久之神渡りと呼ばれる氷の盛り上がりのことでして、佐久之神渡りの”佐久”とは”裂く”を表してるとも考えられています。
御渡りについては観察も祭事も認定も諏訪市小和田の八剱神社が専任しており、八剱神社の宮司以外は誰も御渡りの認定はできないそうです。
ということは、御渡りについて諏訪大社は関与しておらず、あくまでも八剱神社の行事ということで、諏訪の地の歴史を一筋縄では語れない複雑さが見てとれます。
ちなみに御柱祭りも諏訪大社の行事ではなく、本質は氏子さんが諏訪大社に奉仕する祭りなので運営は氏子側にあり、諏訪大社は御柱祭りに合わせて宝殿を建て替え、古い宝殿から新しい宝殿へ御霊代を移す式年造営祭(上社は6月、下社は5月)でしかありません。
ですから御柱(おんばしら)祭りの正式名称「諏訪大社式年造営御柱(みはしら)大祭」とは、諏訪大社側と氏子側が互いに協力し合ってひとつの祭りをおこなう大イベントというわけなんです。
そこでやっぱり諏訪大社といえばタケミナカタ。ですが、どれだけ調べても悩むのがこの問題です。
「下諏訪の歴史」(今井広亀著)は古事記の記述を史実ではないと否定したうえで、
「………出雲族の勢力が日本海に沿って越中・越後の方へのびたことを示している。………建御名方命はそこ(注:越中・越後のこと)に栄えた弥生文化をもって、なお山間の信濃国の開拓をすすめられたわけで………」
なるほど。納得できます。
けどですよ、諏訪についての研究グループが発行されてる「スワニミズム会報」によりますと、
「諏訪に鉄器を持ち込んだのは、後の上社神長(じんちょう)官である洩矢(守矢)族であろう。………中央とつながる古墳文化・馬事文化とともに入諏してきたのは、欽明天皇の金刺宮に仕えたという金刺氏である。………建御名方は金刺氏の神だったはずだ」
洩矢(守矢)氏と金刺氏は反朝廷と親朝廷の代表格です。
もちろん洩矢(守矢)氏が反朝廷なので、そうすると金刺氏の神であるタケミナカタは親朝廷側の神になってしまいます。
ですがタケミナカタが出雲族の流れをくむのなら反朝廷側として捉えるべきであり、古事記の著者がタケミナカタの名前で何を表現したかったのかがつかみきれません。つかみきれないので諏訪へ行ってきます。