糺日本書紀 part9

日本書紀では中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣(藤原)鎌足との出会いが、中大兄皇子が蹴鞠をしていたら靴が飛んでいってしまい、それを鎌足が拾って中大兄皇子に履かせてあげたことがきっかけだったんだとさ。
まぁこの話は100%フィクションなんですが、中大兄は皇太子ということになっているので、蹴鞠をしている場へ近付くことができた鎌足はフツーの農民ではないですよね。

この創作話、実は新羅にも同じようなものがあるんです。
天智・天武と同じ時代のこと、新羅に武烈王の金春秋という武将がいました。
彼は新羅の高官であった金ユシンと蹴鞠をしていたところ、金ユシンが金春秋の衣装を踏みつけてしまい、衣装の紐が切れてしまったんです。

そこで金ユシンは自分の妹たちに直させようと思い、まずは姉妹の姉宝姫(ほうき)を呼びましたが宝姫は出てきません。
それで妹の文姫(ぶんき)が金春秋の服を直したことで恋が芽生え、やがて二人は結ばれたんだとさ。めでたしめでたし。

と思いきや、これがとんでもない策略だったんですが、中大兄と鎌足が出会う場面と、金ユシンと金春秋が出会う場面ってよく似てますでしょ。
ナゼって、日本書紀は中大兄と鎌足が出会う場面を新羅の歴史書 “新羅本紀”から拝借したからなんですが、新羅のその場面も唐(中国)の歴史書から引っ張ってきてるとの指摘もあり、いずれにせよどちらも史実ではありません。

このような盗作的なことは他にもありまして、645年に中大兄皇子と鎌足が飛鳥の板蓋宮(いたぶきのみや)で、蘇我入鹿を斬殺した…………ことになっている「乙巳(いっし)の変」とその後に続く「大化の改新」。あの話って、まったくもってインチキ臭いですよね。
これらの話も元ネタがありまして、これも“新羅本紀”に出てくる「ヒドンの乱」の焼き直しなんですが、話を戻します。

金春秋と結ばれた文姫というのが、後に天武天皇の后になる額田王(ぬかたのおおきみ)その人のようです。
額田王はその後、天武天皇と別れて天智天皇の后になったように歴史は伝えられていますが、天智天皇には嫁いでいません。
なので、万葉集で大和三山の香久山・耳梨(耳成)山・畝傍山が出てくるあの歌。
あれは大和三山に例えた中大兄(天智)と大海人(天武)と額田王の三角関係をうたった歌だと解釈されていますが、違います。
「万葉集で解く古代史の真相」(小林惠子著)によりますと、畝傍山は額田王ではなく蘇我一族を暗示しているのだと。
すると先ほどの「乙巳の変」や「大化の改新」の隠された真相が見えてくるかもしれないですね。

ちなみに中大兄皇子(天智天皇)の正体は、641年に済州島へ島流しにされた百済の皇子“翹岐(ぎょうき)”で決まりかな、と最近は考えるようになりましたが、百済の余豊璋(よほうしょう)かもしれません。
で、藤原鎌足の正体ですが、百済の高官“智積(ちしゃく)”あるいは“智籍(ちせき)”らしいのですがまだ理解できておらず、唐の郭務宗(かくむそう)なのかなぁ?と思ったりもしています。
とにかく、古代に栄えた地域は渡来人だらけだったんでしょうね。