糺日本書紀 part13

高句麗の莫離支王蓋蘇文(がいそぶん)の長男である男生(だんしょう・ナンセム)の裏切りと唐の強大な軍事力によって高句麗が滅ぼされた(ことになっている)668年からから遡ること26年前の642年。
高句麗の首都平壌(ピョンヤン)で若かりし蓋蘇文がクーデターを起こして栄留王を殺害し、代わりに宝蔵王を擁立したことで蓋蘇文は実質上の独裁者となり、自ら莫離支王(または大莫離支)を名乗りました。
このクーデターで唐は怒り心頭に発し、唐の蓋蘇文憎しはここから始まりまってます。

それで前回の続きの高句麗滅亡なんですが…………

国家が滅亡したというと、そのイメージとして国土は焦土化し、建造物は徹底的に破壊され、国民は多くが死に絶えたか奴隷として自由を奪われ苦しい日々が続いたように思ってしまいますが、実はそんなことないんです。
660年に滅びた百済にしろこの高句麗にしろ、国家国民が滅亡したのではなく、国家を支配していた王家と一部の側近がその立場を剥奪されて相手国に連れ去られた程度で、ほとんどの国民はそれまでと変わらない生活が可能だったようです。
というのも、国民の生活を保証することで彼らを自分の国の兵力にもできるし、何しろ不必要に抵抗してこないので国家が安定します。
というわけで、百済も高句麗も役人の多くは今までの地位を奪われることなく国家運営に当たっていました。

ところが高句麗は唐・新羅連合により国を滅亡させられた2年後の670年、高句麗に残る地方の豪族たちが唐の高句麗支配を認めずに、蓋蘇文の弟である浄土の子の安勝を王として擁立してしまい、宗主国たる唐も表向きにはそれを容認せざるを得ない状況になったわけです。
665年に蓋蘇文は病死したことになってますがボクは今のところそれを信じておらず、安勝王の擁立は背後に蓋蘇文の存在があったのではと疑っています。
そして蓋蘇文本人は日本に渡り、白村江の戦い以降日本を支配しつつある唐を追い出しにかかった。
その蓋蘇文こそが天武天皇の正体かもしれず、だとすると唐からすれば “またお前かっ!” ということになり、結果的に天武天皇の血筋が皇位につくことを唐は許さなかったのだと考えています。

とはいえ、天武天皇=蓋蘇文説を長々と説いておきながらこの話を自分自信でも絶対的に正しいと信じているわけではなく、話がこれで済んだら古代史の謎を解明するのにそれほど苦労しないっす。
実は天武天皇の正体が他にも疑われる人物がいるんです。
その名は郭務宗(かくむそう。”そう”は立心偏に”宗”の字です)
この郭務宗が日本書紀において日本にやって来たのと、大海人(おおあま:のちの天武天皇)が日本書紀に突如として現れたのが同じ時期です。
ではナゼ、この郭務宗が天武天皇かもしれないということなんですが、これまた話が長くなるためまたそのうちに。
あーぁ、古代史の謎についての答えは今日の答えってことです。明日にはまた新しい答えになってるかも。
お休みなさい。