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「遷都信濃国 vol.26」

だんだん天武天皇から遠ざかっているような気もしますけど、諏訪の歴史を判らずして信濃への陪都は理解できなさそうなので、しばらくは諏訪を再考します。

縄文時代の中期、日本でもっとも人口が多かったのは諏訪湖を中心とした地域だったそうです。
特に諏訪湖北側の蓼科山麓には当時の集落跡や遺跡が次から次へとわんさか見つかっていて、標高1700~1800メートルの山の中腹や山頂付近にも大勢が暮らしていました。
縄文中期は温暖な気候だったのでしょうか?
いえいえ、そんなことはなく、寒かったらしいです。
ではナゼ人々は山の中へ中へと移動したのでしょうか?

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「遷都信濃国 vol.25」

また諏訪へ行ってきましたが、今回は天武天皇の陪都計画についての情報はナシ。
守矢史料館で守矢氏の系図をいただけたのは収穫ですが、タケミナカタについてはますます疑問が湧いてきまして、ですからしばらくは諏訪通いが続きそうです。
それで、今回は土偶「縄文のビーナス」と「仮面の女神」のお話を少々。どちらも国宝です。
縄文時代の土偶なのでタケミナカタとも天武天皇とも直接は結びつきませんが、発掘された舞台は信濃国ですので、神話時代よりも古き時代の信濃国に想いを馳せてみます。
けど、神話時代よりも古い石器時代や縄文時代にも人は暮らしていたんだから、そもそも神話時代って何なのさ、と思いません?
先人たちに失礼ですよね。

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「蘇った”瑞鳳”の輝き」

磨いたら輝きが復活しました。
「古墳にコーフン協会」名古屋支部の会長は、そのままの風合いでいいんじゃないのっておっしゃってましたが、弥生時代当時の輝きに戻したかったので、何度も何度も磨き続けること3時間。少しずつキラキラと輝き始め、おぉ綺麗きれい。ずいぶんと輝いてきました。

今から約二千年前の製法は、まず外側の型をA面とB面に分けて作り、銅鐸表面の図柄を型の内側に刻みます。
A面とB面の型をぴったり合わせれば外側の型は完成で、次は内側の型を作るんですが、内側の型と外側の型とのすき間は狭いところだど2ミリ程度。
銅鐸の中にはもっとも薄い部分がたったの0.5ミリしかない物もあります。0.5ミリって………シャープの芯かっ!

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「我が家に銅鐸がやって来た」

銅鐸が欲しい欲しいと想い続けていたら、本当に銅鐸がやって来ました。
しかもお土産レベルの小さな物ではなく、加茂岩倉遺跡から出土した35号銅鐸の完全複製品です。
通常は博物館などでレプリカとして展示されるほど精巧な作りなので、もう嬉しすぎて夜しか眠れません。(だったら問題ないじゃねーか!)

この銅鐸、弥生時代当時の製法をすべてそのまま再現しての本格的な製品で、全高46.5㎝、最大幅25.0㎝、重量8.8㎏。
(※実物より重くなってしまったのは厚みの問題です。弥生時代の銅鐸は2ミリほどの厚さで、ベテランの職人でも真似できない技術とのこと)
名前も付けました。
命名「瑞鳳(ずいほう)」。

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「遷都信濃国 vol.24」

天武天皇が信濃国を陪都先に選んだ理由が少しずつですが見えてきました。
お馬さんのお話しです。
長野県では馬のお墓がたくさん発見されています。それだけ馬の生産が盛んであり、同時に馬を大切にしていたのでしょう。
5世紀ごろの馬はとても小さく、体高は1メートル30センチほどしかない中型馬で、その遺伝子を受け継いでいるのが現在の木曽馬(背が低くてずんぐりむっくりした体格)であろうと考えられています。
木曾御嶽山の麓には木曽馬の牧場があり、背に乗って散歩することができますが、古代の人たちもそうしていたのでしょうか?
また、馬具が古墳の副葬品として、群馬県・静岡県・福岡県と並んで長野県からも多数出土しています。

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「遷都信濃国 vol.23」

長野市の市立博物館で古墳を専門に研究されてる学芸員氏にボクは、閉館時間を過ぎても質問し続けていました。(迷惑な奴だ!)
そして最後にこんなことを聞いてみたんです。
「考古学の見地からですと、諏訪のタケミナカタはどのように考えていらっしゃいますか?」
「…………タケミナカタ?」
「はい、諏訪大社の御祭神です。いついつの時代の人ではなかろうかとか、神話に出てくるタケミナカタのモデルは諏訪の誰それではないかとか」

それまで熱心に話してくださっていた学芸員氏が急に冷めた目でボクを見て、あきれた顔でこう言いました。
「そんな人はいません」

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「遷都信濃国 vol.22」

“信州信濃のソバよりも、
あたしゃあなたのソバがいい”
この名言、タケミナカタが安曇野から戸隠にかけてを旅した際に残し、その数百年後に今度は天武天皇が飛鳥浄御原律令の制定時に引用したため現在まで受け継がれてる…………わけがないのでそんな話を信じてはいけませんが信州はソバが美味しいです。

信濃国の大国主タケミナカタは出雲での名を御穂須須美(ミホススミ)と申しまして、”御穂”は”美保”と同じに考えられています。美保神社の美保であり、美保関町の美保です。
2008年8月26日、諏訪大社の前宮で大がかりな神事をしたときのこと、祭壇に諏訪と出雲のススキが必要だったので、島根県の美保関町までススキの穂を採りに行きました。
神事の数日前、わざわざ名古屋から美保神社が鎮座する美保関町まで片道500㎞の道のりを夜中に走って。

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「遷都信濃国 vol.21」

諏訪はナゾが多く、いや諏訪もナゾが多く、古事記に書かれているようなタケミナカタが追われて逃げてきたのが「諏訪」で、やっと諏訪の歴史が始まったように考えるのは、それまでの諏訪や信濃国の歴史に対する冒涜でしょう。
そもそもタケミナカタがタケミカヅチ(まぎらわしい名前だ。わざと混乱をまねくために創作された名前としか思えない)とやらに追われて逃げた”負け犬”ならば、島津藩が戦(いくさ)の守護神にタケミナカタを選ぶわけがなかろうに、マカローニ、そうだろうに。
現在でも鹿児島には南方(ミナミカタ・ミナンカタ)神社がいくつかあり、諏訪のタケミナカタが祀られています。
ということは、知っていたんでしょうね、明治以前は、諏訪の力の偉大さを。

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「すみませーん、銅鐸くださーい」

古墳時代の訪れとともに衰退していった銅鐸文化に、ニギハヤヒ尊を重ねずにいられないのは勝手な希望的観測でしょうか?
ニギハヤヒ尊が鳴らしていた銅鐸なんかが残っていれば、オークションでいくらが付くことか…………

銅鐸といえば39個が出土した島根県雲南市の加茂岩倉遺跡を思い浮かべますが、加茂岩倉の銅鐸は初期のものなのでサイズは小型ばかりです。
ということは、”聞く(鳴らす)銅鐸”として使われていたのでしょう。
加茂岩倉遺跡は、銅剣358本が出土した荒神谷遺跡から直線だと3㎞程度の距離にあります。

加茂岩倉遺跡に次いで出土数が多いのは滋賀県野洲(やす)市の大岩山で、24個が出ています。
こちらは後期のものなのでとにかくデカイです。

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「遷都信濃国 vol.20」

まず初めに訂正させていただくことがあります。
このコーナーは天武天皇が遷都先にナゼ信濃国を選んだのか、その真相を探るためにスタートしました。どうして信濃の国に遷都しなきゃならないんだ、と。
ですが、天武天皇がおこなおうとしていたのは「遷都」ではなく、信濃を「陪都(ばいと)」とすることでした。信濃でバイトをするのではありません。それに天武天皇はバイトする必要などないでしょうから。

「陪都」とは?
都を1箇所だけに置くのではなく、首都以外に設けた都市が「陪都」でして、第2・第3の都のです。「陪都」はあるのかアルバイト。
天武天皇は唐の復都制に倣って、飛鳥以外にも都を置こうとしていたのです。多分たくさんのアルバイトを雇って。
ですからタイトルも「陪都信濃国」が正しいのですが、そこは変更せずにこのままいきます。

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