手長神社オンバシラ祭り part 3

階段登りが終わった後、境内に植えられた梶の木を見つけたので葉の写真を撮っていました(写真1)。

梶の葉は諏訪大社の神紋になっていますが、手長神社も梶の葉を大切にされていて、5年ほど前に当時の宮坂宮司から梶の葉を描いた土鈴をいただきました(写真2)。

以前、宮坂さんは手長神社と八剣(やつるぎ)神社の宮司を兼任されてましたが、現在は八剣神社に専念され、毎年冬になると凍った諏訪湖に御神渡り(おみわたり)が出たか否かを認定されるのがこの宮坂宮司さんなんです。
めっちゃ面白いんですが、諏訪ではとっても偉~い人なんですよ。

それで、梶の葉の横にある案内板を何気なく読んでいてひっくり返りそうになりました。
というのも、手長神社の旧社殿は弥栄(いやさか)神社と呼ばれていて…………(写真3)。

はーぁ?
手長神社が昔はイヤサカ神社だって?
マジっすか?

これは聞き捨てならぬと思い、いや、読み捨てならぬので現在の宮司さんをつかまえて詳しくお聞きしました。
新しい宮司さんも話しやすいお人柄で手長神社の歴史にも詳しかったので、ついでに諏訪古事記を奉納させていただきました。
で、弥栄神社の由来ですが、昭和8年に本殿を建て替えることになり、旧社殿を一之御柱の後方に移したそうです。
その旧社殿に他の神々も合祀して、社名を弥栄神社にしたとのことなので、弥栄の名は昭和になってからのことでした。満州事変の勃発が昭和6年なので、混乱した時代ですね。

最終日の26日は建てオンバシラです。境内四隅に樅(モミ)の大木が建って、いよいよ神になります。
まだ建ってませんでしたが、所定の位置まで曳き上げられて横たわる三之御柱・四之御柱を見に行くと、よくもまぁこんな斜面を曳いてきたもんだと思いますよ。
前回の写真が残ってました(写真4)。

手長神社の入り口まで来たところですが、ここからさらに裏手の階段を曳き上げたり急斜面を登るんです。スゴい!
今回は疲れすぎてて、後から登って来るオンバシラを見学している余裕がなかったため写真が撮れませんでした。

建てオンバシラのこの日、手長神社から徒歩で20分ほどのところに鎮座する先宮(さきのみや)神社へ知人が建てオンバシラの手伝いに来ているとの連絡があったので、そちらにも行ってみます。
この先宮神社もヤマト朝廷から封じられた神々を祀る社でして、御祭神は高照姫(たかてるひめ)。
案内板の神社由来にも神々が封じ込められた経緯が書いてあります。先宮の神々はタケミナカタ以前の先住民なのだと。つまり、縄文時代からこの地で生きてこられた人々のことです。
けれども後に諏訪入りした大和朝廷に反発したため、その結果として根の国へ封じ込められてしまったんですが、ボクはそんな先人たちが祀られた神社へ行くと、何かしら玉し霊が揺さぶられます。
この神社に鎮座されている神々(縄文時代の人々)たちも、虐げられてきた歴史があるんですね。手長神社と同じです。
だから古事記や日本書紀をそのまま史実として信じるなってことなんですが、いまだにこの国は過去の歴史を糺(ただ)そうとしてないので未来が歪むんです。
今を中心軸にして過去と未来は鏡写しになるため、未来を正しく明るくしたいのなら、過去の歪みを糺さなければいけないんですが、為政者には判らないでしょうね。多くの国民もですけど。
ちなみに諏訪から帰った翌日(9月27日)は、元おニャン子クラブのアイドルが日本武道館で大々的に復活ライブでもやってたんですか?
ニュースはそればっかりでしたので。国葬さゆりの警備が物々しいだとか、国葬さゆり反対派が激しいデモだとかって。
武道館でなく新潟の越後平野でやればよかったかもしれませんね。えっ、なんで越後平野なんだってか?
日本屈指の穀倉地帯。なーんてね。

話を戻しまして、先宮神社はかつて鷺宮(さぎのみや)とか鵲宮(さきのみや)と呼ばれていて、この鷺とか鵲(かささぎ)に深い意味があるんですが、その話はまた別の機会にするとします。
手長神社の階段を下り、なるべく日陰を通りつつ先宮神社へ着いたらちょうど建てオンバシラの神事が始まってました。これは二之御柱で冠落としの前に氏子さんが斧を入れてるところです(写真5)。

手長神社へ行かれた際には、こちら先宮神社にも寄られるとよろしいのではないでしょうか。
古き神々の息吹が感じられるかもしれません。

というわけで、楽しかった手長神社の小宮オンバシラ祭りでした。
氏子の皆様、今回も本当にお世話になりました。
また6年後、お会いできることを楽しみにしております。