弥栄古代史研究室」カテゴリーアーカイブ

糺日本書紀 part7

これまで高市(タケチ)皇子の父は天武天皇と考えられてきました。
壬申の乱においても高市皇子は大海人皇子(のちの天武天皇)に味方をしており、そのことについても疑問視されることはありません。
しかし高市皇子の父は天智天皇です。
ではなぜ壬申の乱で同じく天智天皇を父に持つ大友皇子側につかなかったのでしょう。母は違っても兄弟なんだから。

実は高市皇子にとって一番の敵は身内にいて、それが同じ父を持つ大友皇子です。
高市皇子にとっては自分が即位するために大友皇子が邪魔で仕方ありません。
そこで高市皇子は壬申の乱で、大友皇子にとって最大の敵である大海人(天武天皇)と”敵の敵は味方”同盟を結び、親子の契りを交わして近江王朝側と戦ったんです。その契りから高市皇子は天武天皇の皇子ということになりました。

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糺日本書紀 part6

以前にも触れましたが、万葉集から日本書紀をひもとくと、天智天皇は間違いなく皇太子ではなくなってしまうんですが、実際にそうなのか、あるいは天武天皇側の誰かがそのように天智天皇をおとしめたのか?
万葉集のルールとして
☆天皇の歌は”御製歌”
☆皇后や皇太子の歌は”御歌”
☆その他は”歌”
とされていまして、例外はありません。約1名様を除いては。それが中大兄皇子(後の天智天皇)です。
中大兄皇子は皇太子であるにもかかわらずその歌がただの”歌”になっています。本来なら”御歌”とされなければいけないのに。
しかも作者名が中大兄になっていて呼び捨てなんです。皇太子が呼び捨てになっているのはこれも他に例がありません。通常は必ず名前のあとに”皇子”または”尊(命)”が付けられるのですが。

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糺日本書紀 part5

吉備の国で作られた特殊器台がヤマトへ入り、それが古墳のまわりにズラリと並べられる円筒埴輪へと発展しました。
まぁ技術的には簡素化されているので、それを発展と言っていいかは疑問ですが、とにかく円筒埴輪の原点は吉備国で広まった特殊器台なんですね。
ではその吉備国に根付いた人たちはどこからやってきたのか?
おそらくは中国の揚子江南岸、”江南”と呼ばれる地域から渡来した人々がまずは北部九州へ上陸し、その後に瀬戸内海を航行して吉備に移り住んだんだと思われます。

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糺日本書紀 part4

国会では財務省の公文書偽造について野党が激しく官僚および政府を追い詰めていめていましたが、日本書紀や古事記も公文書偽造なので、公文書偽造は大昔からの風習ですね。
これら公文書偽造については刑法155条の3項に違反すると思いますが、素人なので1項と2項と3項の違いがよく判らず、日本書紀や古事記の場合は有印(その時代に印鑑があったのかどうかも初めて考えたのでまた疑問が浮上してますが……)であれば3項に違反するのだろうか?
1項は”どんだけー”とか”背負い投げー”ではないです。それはイッコーや!

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糺日本書紀 part3

9月から始まった5回コースの遠賀教室で、その前後や途中に主催者さんには古墳や資料館、古代史にまつわる土地へ連れていっていただきまして、北部九州に王朝があったことは揺るぎない事実になりました。古代の遠賀湾って凄いですね。
それと、以前の福岡教室でアシスタントをしてくれていた女性が遠賀郡の鞍手に自宅があり、その鞍手が面白いのなんのって。

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糺日本書紀 part2

てえへんだ、てえへんだ、底辺×高さ÷2だ。
天智天皇って日本書紀に書かれてるように、本当に畿内に来ていたのだろうか?
けど、その前に。

<遠賀開闢 第1弾"宵祭り">の翌日、遠賀のレディースクリニックにて仙骨をゆるめたことが良かったのか?無事に普通分娩で生まれた”ことちゃん”が3158グラムでした。
その翌日は名古屋の自宅で「諏訪古事記」のゲラの最終チェックしていて気づいたのが、言納(ことちゃん)が出産したタケルが3158グラムになっていることで、マジっすか!
その場面は第1章に出てくるので、原稿を書いたのは半年以上前のことです。
んー、どうしたもんか。

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糺日本書紀 part1

part0にも書きましたが、「糺日本書紀」は、”ただす(の)にほんしょき”と読みます。
「諏訪古事記」の原稿を書き終えた翌週、いきなり新しい課題が突きつけられ、今まであちこちに天武天皇を追いかけてきましたが、どうやら次は天智天皇です。つまり双方を知れとのことなのでしょう。

始まりの舞台は福岡で、しかも糸島とか志賀島じゃなくて予想外の遠賀川流域でした。
遠賀川流域には魅力的な古墳がたくさんあり、以前から行きたかった地域なんですが、10月1日に遠賀川の河口付近で急きょ「遠賀開闢 第1弾 “宵祭り”」をおこなうことになってしまいまして、それをpart0で紹介しました。

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糺日本書紀 part0

<遠賀開闢 第1弾"宵祭り">
9月から遠賀川の河口付近の海沿いで福岡整体教室が始まったんですが、会場になっている齋藤シーサイドレディースクリニックのすぐ脇には縄文時代の山鹿貝塚がありまして、まさかの展開に驚きでした。
というのも、山鹿貝塚は九州を代表する縄文遺跡のひとつでして、3500年前(縄文後期)の人骨18体も発見されているんです。
また、クリニックの所有地になってる山には古墳があり、地面を掘れば須恵器がわんさか出てくる面白い森でした。

10月1日の日曜日クラスの終了後にその森で「遠賀開闢」の祭りをおこなうことが9月29日の夜にいきなり決まってしまい、急いで祝詞をつくり、海の幸・山の幸や他にナゼか竜胆(りんどう)の花が必要なので大量に用意していただき、蚊に刺されながら宵祭りをおこないました。

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諏訪古事記 番外編その15

武田信玄は自分の遺体を入れた石棺を諏訪湖に沈めさせて敵の目をあざむいたと伝えられています。
それで日本テレビと信州大学が共同で調査したところ、諏訪湖の北方向(諏訪大社の秋宮・春宮側)で湖底に1辺が約25メートルの不思議な菱形を発見しました。これは人工的な遺物なのでしょうか?
そして菱形内のどこかに石棺が置かれているのでしょうか?
ただし、諏訪湖の湖底には約13000年前の縄文草創期に栄えた曽根遺跡が眠っているため、果たして湖底の菱形と信玄の石棺に関わりがあるかは謎のままです。
最近は諏訪湖ニュースがよく聞こえてきまして、「君の名は」の湖が諏訪湖説、2016年夏には諏訪湖のワカサギほぼ全滅ニュース、2017年になり諏訪湖のミステリーサークル話題などなど。次は信玄の石棺が見つかるニュースになるのでしょうか?

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「諏訪古事記 番外編その14」

諏訪を含む信濃国で気になる言葉や地名の語源を調べるため次々とアイヌ関連の書籍を買いあさっているうち、とうとうアイヌ語辞典だけでも3冊になってしまいましたがそれでも納得いく答えは得られず、かといってすぐに北海道へ行くこともできないので、まずは三重県の松阪へ行ってきました。松浦武四郎記念館です。
松浦武四郎は幕末から明治初頭にかけて6度の蝦夷地(北海道)探査の結果、いかにアイヌの人々が和人(本州から渡った人)から搾取・略奪・虐待・強姦を繰り返し受けているかを訴え、アイヌ人からは信頼を得たものの松前藩からは命を狙われるまでになり、最終的は明治政府に愛想を尽かして蝦夷地を離れてしまいました。
松浦武四郎は「北海道」の名付け親であり、彼がそれを提案した明治2年7月17日にちなんで、2017年から7月17日を「北海道の日」とすることが道議会で決定しています。

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