赤土団子を作るため、宇陀市大宇陀で採ってきた赤土にお塩とお神酒を練りまぜて、秤で正確に50グラムずつを分けてる姿に、家族は恐怖と不安を感じていたことでしょう。
それはともかく、宇陀での2日間で、宇陀市役所観光課主任の室さん、大宇陀の民芸館の皆さん、大宇陀まちづくりセンター「千軒舎」の辻本さん、曽爾村役場地域おこし協力隊員の甲斐さん、曽爾高原でヨモギ団子を売ってたおばちゃん、「古代大和は宇陀から始まった」の著者である松尾文隆さんらから、宇陀の歴史を詳しくお聞きすることができたことに、深く感謝いたします。
10月13日のニュースで
「現在、台風19号は奈良県の宇陀市上空を通過中です」と。
古くからの悪しき想いが、どれだけかは風に飛ばされてくれればと願わずにはいられませんでした。
とはいえ、まだまだ始まったばかりですので、それで終わるとは思っておりませんが……………
宇陀には大宇陀地区に「天香久山」がありまして、山頂には香久山古墳なるものもあります。
どうやら大和三山の「天香久山」は大宇陀のそれよりもずーっと後になって付けられた名前らしく、天智天皇の御世には別の名前だったとか。
神武(と呼ばれる崇神)天皇時代の故事に登場する香久山は大宇陀の香久山に間違いなさそうで、その香久山の赤土が当時はとても重要視されておりまして、神事には欠かせぬものだったようです。
ただし、大宇陀の香久山で赤土を探したところ見当たらず、すぐとなりの「高天原」と呼ばれる山は赤土だらけなので、まだ判らないことばかりです。
この「高天原」の名付け親は第41代(ということになっている)持統天皇(当時は鵜野讃良)でして、壬申の乱で吉野から脱出した際に大宇陀の地に寄ったことで、自身の名「高天原広野姫」からその山を「高天原」と名付けたとになっています。
実は、以前に赤土をいただいてきたのは香久山ではなく高天原でして、その赤土をグニュグニュこねた赤土団子をいくつかの神社などにお供えしてきました。
高天原のすぐ隣、阿紀神社はヤマト姫がアマテラスを4年間も祀っていた社でして、以前は高天原の山頂(といっても低い丘)に鎮座していました。
もちろん赤土をいただいた高天原の山頂にも赤土団子をお供え(お返し)してまいりました。
奇しくもその日は満月が地球の影にお隠れになり、赤土団子と同じ色の姿を見せてくださったため、ススキの茂る山道で赤椀にお神酒を注ぎ、赤土団子を一緒にお供えしましたが、残りのお神酒は全部いただいたため、楽しい夜になりましたがほとんど記憶にございません。
「古代大和は宇陀から始まった」の著者、松尾文隆さんのお宅を訪ねることもでき、ニギハヤヒ尊の長男(とされる)ウマシマヂ命はニギハヤヒ尊と親子ではない説、三輪山の大神(おおみわ)神社の御祭神はニギハヤヒ尊ではなくナガスネヒコ説、石上(いそのかみ)神宮こそがニギハヤヒ尊のお墓である説など、徹底的に調べあげた郷土史研究家だからこそのお話は、ひとつの説としてメチャクチャ面白かったです。
著書に書かれている伊勢外宮の隠された御祭神の話も納得でして、次の宇陀行きが楽しみになりました。
そして、赤土団子と宇陀の竹を白山へ持ってこいと……………