弥栄古代史研究室」カテゴリーアーカイブ

「諏訪古事記 番外編その10」

諏訪大社の上社(前宮・本宮)大祝(おおはふり)を受け継いできた神氏はその出自がはっきりしていないんですが、下社(春宮・秋宮)の金刺氏は初代の科野(信濃)国造タケイオタツノ命は熊本県阿蘇神社のご祭神であることが、社伝や阿蘇氏系図などによって明らかになっています。
文献があるからといってそれ史実であるとは限りませんが、有力な説のひとつですね。
そのタケイオタツノ命の長男が阿蘇氏を継いで父を祀ったのが阿蘇神社らしく、次男は科野国造として諏訪大社下社の神官を務めた金刺氏を継いでいることになっています、一応は。
もしこれが史実であるなら阿蘇神社と諏訪大社は出自が同じということになりますね。
そして今、諏訪では6年に1度の御柱大祭真っ只中です。

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「近江と若狭」

昨年12月、諏訪関連から甲賀三郎や兵主神(ひょうずしん)を調べに近江へ行きましたが、今回は諏訪とは別に琵琶湖の湖西地区を訪ねました。
近江国の高島市は何とものどかな湖岸沿いにありますが、古代は栄えたクニがあったのでしょう、鴨稲荷山古墳からは素晴らしく美しい金と銅の装飾冠(※写真1)や装飾履が出土しています。
高島歴史民俗資料館ではレプリカの展示でしたが、何でこんな山あいの静かな町からこれほどの装飾品が出てくるんだ、と驚きです。
これは朝鮮半島の加耶国(またの名を任那=みまな)の影響を受けた製品らしく、またこの地は第26代継体大王の生誕地とも伝えられているので、古墳の被葬者は大和や河内の有力者と深いつながりがあったのでしょう。

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「諏訪古事記 その13」

例えばの話ですよ。
古事記では諏訪湖を「州羽の海」と記しています。
山口県の旧国名「周防(すおう)」と長野県の「諏訪」は語源が同じだとの説もありますが、それはともかくとして現在は”スワ”と発音する「諏訪」の元は”スハ”だったようでして、音霊的には「命がある」「生きている」ことを表している言葉が地名になったのかも…………

スーッと吸って、ハーッと吐く。
吸うの”ス”と吐くの”ハ”でスハ。
「スハ」とは呼吸をしている状態を表した言霊ならば、命ある限り人も山の獣も諏訪湖の魚も”スハ”を繰り返します。
木々や草花も生きていれば”スハ”を続け、ひょっとして鉱物にさえも古代人は”スハ”を感じていたのかもしれません。「諏訪」の語源を古代朝鮮語とは切り離して考えたうえに例えばの話ですけども。

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「諏訪古事記 その12」

諏訪大社の上社(前宮・本宮)が御神体と仰ぐ守屋山は、イスラエルのモリヤ山との関係性が指摘されますが、たしかに同じモリヤ山ですし、また同時に守屋山は物部守屋とも結び付く理由がたしかにあるため、そのあたりはとても気になるところです。
しかし今回はもう少し学術的な話になりまして、守屋山の山麓標高835メートル付近のフネ古墳では、副葬品として2本の蛇行剣が出土しています。
※守屋山の山頂は標高1650メートルで、諏訪湖の湖面は現在標高759メートルです。

蛇行剣とは全体がクネクネと3~6回屈曲した剣で、1959年の発見当時は全国でも5例ほどしか見つかってなかったため、用途は謎に包まれていました。
写真1:出土したときの様子
写真2:左の2本が蛇行剣で、一番左側の剣はカーブがはっきりしています。

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「諏訪古事記 その11」

古事記に登場するタケミナカタが誰を(何を)表現しているのかはまだ答えを出せていませんが、個人であろうが集団であろうがもし諏訪へ渡って来た出雲族だとすると、どうしても腑に落ちないことがあります。
諏訪にやって来た時代がいつなのかにもよりますが、諏訪ではタケミナカタが出雲から稲作を持ち込んだと考える研究者がたくさんいて、ということは弥生時代になります。
だとするとナゼ諏訪ではもっと銅鐸が出土しないのかということ。
出雲の荒神谷遺跡では銅剣358本が発見されたわずか7メートル東の斜面から銅鐸6個と銅矛16本が出土しましたし、荒神谷遺跡から南東約3キロの距離にある加茂岩倉遺跡からは実に39個の銅鐸が見つかっています。

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「諏訪古事記 番外編その9」

2月15日、諏訪大社本宮拝殿。
上社(前宮・本宮)の氏子さんたちが御柱祭りで曳く御柱を決めるための抽籤(ちゅうせん)式がおこなわれるため、朝から氏子さんたちが町内ごとで揃いのハッピを身にまとい、本宮へ続々と集結しています。こちらもオリジナルのハッピを着て参道にある通いつめたオヤジさんの店へ。
本宮の拝殿は関係者と各町内の代表しか近づけないため、他の氏子さんは境内に設置された大型モニターか、あるいはテレビ中継で抽籤式の様子を見守っています。
もちろんオヤジさんの店でもテレビでは抽籤式が映し出され、次第に盛り上がってまいりました。
各ブロックの抽籤総代さんが引くクジは予備クジ本クジなど合わせて3回。
今回はどこの町内が本宮一之御柱を引き当てるでしょうか?

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「諏訪古事記 番外編その8」

いよいよ6年に1度の諏訪大社式年造営御柱大祭yearになりました。
上社(前宮・本宮)では18の町内を8つに分け、それぞれの御柱を決める注籤(ちゅうせん)式が2月15日におこなわれるため、氏子さんたちの「本宮一之御柱」を狙った早朝願掛け参りが元旦から始まっています。
さて、今回はどこの町内が「本一(ほんいち=本宮一之御柱のこと)」クジを引き当てるのでしょうか。

1月28日(木)午前5時、諏訪の気温はマイナス8度。
この日は「四賀・豊田」地区の参拝に参加させていただきました。
「四賀・豊田」地区は前回2010年の御柱祭りで「前宮一之御柱」を曳き建てていますが、今回こそはと「本一」を狙って早朝から300人以上が集結されていました。
すごい迫力だ。(写真1)

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「遷都信濃国 vol.31」

もし史実としての「壬申の乱」はなかったとしたら…………
少なくとも「大化の改新」はなかったようですし、日本書紀に記されているようなカタチで蘇我入鹿が殺害された「乙巳(いっし)の変」もなかったみたいですね。
それに663年、百済救済のため天智が2万7千の大軍を送った「白村江の戦い」も、実は660年に滅ぼされた百済の王族・貴族を迎えに行っただけかもしれないんです。
さて、どうしましょう。

白村江の戦いでは倭軍が唐・新羅連合軍に敗れた後、唐は高句麗に攻め入ったために倭国は唐に攻められずに済んだ。今まではそう教えられてきました。
けど実状は白村江の戦いの後、倭国は唐・新羅連合軍に占領されていたようで、唐・新羅連合軍GHQの最高司令官マッカーサーとして倭国に赴任したのが新羅の金多遂なのかもしれません。後の天武天皇です。(天武天皇金多遂説)

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「諏訪古事記 その10」

古事記でタケミナカタはタケミカヅチに追われて出雲から諏訪へやって来たことになっていますが、そもそもタケミカヅチって誰なんでしょうか?
タケミカヅチが御祭神の鹿島神宮は諏訪大社の上社(前宮・本宮)から真東にあり、どちらも北緯35度58分~59分あたりです。
1分のズレは地表で1850メートルほどですので、約230㎞の距離と神社創建の時代を考えれば、見事な真東といっても差し支えないでしょう。

鹿島神宮のタケミカヅチはフツノミタマノ剣の神格化でもあるわけですが、フツヌシを祀る香取神宮と鹿島神宮がセットになったのは藤原(中臣)氏による企てです。
天皇家の祖先を祀った(ことになっている)伊勢の内宮・外宮に倣い、自分たちの血筋を神格化するため、鹿島・香取を利用して同じことをしたかったのでしょう。

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「諏訪古事記 その9」

今回は近江の国、滋賀県への出張です。諏訪に飽きたわけではありません。諏訪明神の謎を解く鍵を求めて近江を訪れました。

諏訪には甲賀三郎伝説なるものが伝わっています。
甲賀三郎はある理由で龍に姿を変えてしまうんですが、人が龍になったのではなく、元々は龍が人の姿として現れていたのでしょう。
この甲賀三郎とは諏訪明神の仮の姿であり、諏訪に伝わる龍蛇信仰から生まれた物語かと思われますが、冬になって諏訪湖が凍ると現れる御渡りを、古くから龍に見立てていたのでしょうか。
その甲賀三郎(諏訪明神)の氏神こそが近江の国の兵主(ひょうず)大明神であるとの研究があり、滋賀県野洲市の兵主神社へ話を聞きに行ってまいりました。

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