「諏訪古事記 その1」

タケミナカタは実在した人物なのでしょうか?
というのも、出雲から追われて諏訪の地へ逃げてきた(ことになっている)タケミナカタの名前は古事記にしか見られず、日本書紀には出てきません。
これは、日本書紀が意図的にタケミナカタの存在を排除したからなのか、古事記がありもしない話を何かの象徴として書き入れたからのか?

古事記にしたって712年に完成した(ことになっている)初版?に最初からタケミナカタが登場していたのか、後になってタケミナカタの話を挿入したのかも判りません。
というのもタケミナカタの父とされる大国主命の系譜にタケミナカタは入っておらず、そうなるとやはり後からタケミナカタを作り上げて古事記に挿入したのか、それとも系譜を改ざんしてタケミナカタを排除したのか、それも謎です。

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「遷都信濃国 vol.29」

最近は本題から話が逸れすぎていましたので、いまいちど天武天皇による陪都信濃国関連の資料を整理してみます。
まず、天武天皇が陪都に先だって行宮を置いたとされるのは「つかまの湯」と呼ばれていまして、日本書紀には「束間温湯」として出てきます。
日本書紀によれば、天武天皇14年(685年)10月に
・軽部朝臣足瀬(かるべのあそんたるせ)
・高田首新家(たかだのおびとにいのみ)
・荒田尾連麻呂(あらたおのむらじまろ)
ら3人を派遣して束間温湯に行宮を造営させたとのことですが、翌年の天武天皇崩御によって信濃国の陪都建設計画は中止になりました。
陪都を設けることは唐に倣ったようで、唐では長安を首都としつつ洛陽を陪都にした複都制を実施しています。

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[骨の妙味 41]

ついに「41」です。
数霊の講演会やセミナーに参加された人は「41」が何を意味するかを理解していただいているでしょうから説明は省きますが、何だか嬉しいです。
ちなみに”スピリチュアル・サイエンス”のコーナーで使っている名前の「μ(ミュー)ニュートリノ41」の「41」は、スーパーカミオカンデの高さが41メートルなのと、スーパーカミオカンデが稼働したのが(1996年)4月1日なのと、スーパーカミオカンデが鎮座する飛騨神岡は国道41号線沿いにあるのでそれらの「41」です。けどこのコーナーは[骨の妙味]ですので、骨のお話を。

勝つためのスポーツを本格的にしている学生さんには、ヒザの痛みに苦しんでいる人が多いようですね。
けどお医者さんへ行っても、何ともないって…………

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「天の時、地の利、人の和」

オリンピックについては黙ってるつもりでしたが、あまりにも質問が多いので、ほんの少しだけ。

オリンピックのエンブレムはなかなか素晴らしい案がたくさん出ていますね。
プロによる完成されすぎたデザインは、恒久的な建造物(美術館や博物館など)や組織・企業のトレードマークとしては相応しいと思いますけど、オリンピックとなると国民全体が理解しやすく親しみやすい方がいいかもしれませんね。

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「遷都信濃国 vol.28」

最近は日本各地で鹿が増えすぎてしまい、さまざまな被害が出ています。
かといって増えた鹿の命をただ奪うだけでは申し訳ないですし、鹿の肉には鉄分が豊富に含まれているため、丹波から新鮮な鹿肉を送っていただきました。
それで、鹿肉を食する前に諏訪大社へ行き「鹿食之免(かじきのめん)」と「鹿食箸(かじきばし)」を買い求めてきたわけです。
「鹿食之免」とは鹿肉を食するための免罪符でして、これで鹿肉をいただく許可を得たことになる………といったシロモノなんです。

鎌倉時代、幕府は仏教の教えにより「獣を食べてはならない」との御触れを出しました。
しかし諏訪の地は特別にそれが許されていて、諏訪大社は「鹿食之免」を配布するだけでなく、販売して利益を得ていたんです。
どうして幕府は諏訪大社だけにそのような許可を与えたのでしょう?

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「遷都信濃国 vol.27」

壬申の乱で天武天皇に協力したのは諏訪の金刺氏。金刺氏は諏訪大社下社(春宮・秋宮)の大祝(おおはふり)です。
一方で諏訪大社上社(前宮・本宮)の大祝は諏訪氏で、金刺氏とは敵対関係でもあると申しました。
そして金刺氏を滅ぼしたのは諏訪氏(の一部)であるとも。

「遷都信濃国」の性質上、天武天皇に協力した金刺氏に肩入れする方向で古代史をひもとく内容になりそうなものですが、そう単純な話ではございません。
そもそも上社の諏訪氏と下社の金刺氏は元々が同族のようで、諏訪の地へ進出する以前は伊那谷の、現在の飯田市あたりを本拠地としていたようです。
ちょうどその時期、飯田市界隈に前方後円墳が24基も造られていて、朝廷にとって何か利益になるモノを持っていたからこそ古墳造営を許可されたのでしょう。

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「遷都信濃国 vol.26」

だんだん天武天皇から遠ざかっているような気もしますけど、諏訪の歴史を判らずして信濃への陪都は理解できなさそうなので、しばらくは諏訪を再考します。

縄文時代の中期、日本でもっとも人口が多かったのは諏訪湖を中心とした地域だったそうです。
特に諏訪湖北側の蓼科山麓には当時の集落跡や遺跡が次から次へとわんさか見つかっていて、標高1700~1800メートルの山の中腹や山頂付近にも大勢が暮らしていました。
縄文中期は温暖な気候だったのでしょうか?
いえいえ、そんなことはなく、寒かったらしいです。
ではナゼ人々は山の中へ中へと移動したのでしょうか?

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「整体教室in福井県鯖江市」

福井教室の第1回目8月23日は夏休み中の日曜日のため、翌日24日(月)に補習日を設けました。
会場は鯖江市内の予定です。
教室の内容につきましては「数霊屋総本家」の[骨の妙味]コーナーや、イベントインフォメーションに他の教室の案内で詳しく出ていますので、そちらをご覧ください。

☆福井教室の日程。
第1回目:8月23日(日)
※第1回目補習日:8月24日(月)
第2回目:9月13日(日)
第3回目:10月4日(日)
第4回目:11月1日(日)
第5回目:11月29日(日)
※前半は3週間おき、後半は4週間おきです。
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