弥栄古代史研究室」カテゴリーアーカイブ

糺日本書紀 part17

(架空の)大和天智とは=(実在する)藤原鎌足のことでして、鎌足がやらかしたくせに天智天皇に罪を押し付けた悪行はまだまだ他にもあります。
鎌足は蘇我入鹿や古人大兄皇子、蘇我倉山田石川麻呂を殺害した後の658年11月11日ポッキーの日に有間(ありま)皇子を処刑しているんですが、これまた蘇我氏が悪者にされているんです。
ありもしない有間皇子の謀反を蘇我赤兄が斉明天皇に密告したことになってますが、天智の母である斉明も飛鳥で即位していたとは考えられず、百済を追放されてから恐らくは対馬か九州筑紫にいたはずですから、有間皇子の処刑を命じたのも大和天智、つまり鎌足なのではないでしょうか。

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糺日本書紀 part16

大和天智が蘇我入鹿を殺害(乙巳の変)した後におこなったことになっている中央集権的な国家体制である律令制度(大化の改新)は、大和天智=鎌足が蘇我氏の政策を横取りしたのであり、本来は蘇我馬子・蝦夷・入鹿らの蘇我氏が進めていた国造りであると最近では考えられるようになっています。
ということは学校で教わる、蘇我氏が律令改革に反対したり横暴に振る舞ったから大和天智(当時は中大兄皇子)と鎌足が蘇我入鹿を殺害したというのはデタラメで、実は蘇我氏が律令制度を整えようとしていたのでしょう。
けど、大和天智は存在せず鎌足のことですから、鎌足は蘇我倉山田石川麻呂をそそのかして入鹿を呼び出し、現在も入鹿の首塚があるあたりで殺害したと思われます。
ということは、皇極天皇の目の前で入鹿の首がはねられた日本書紀のあのシーンもまったくの作り話ですね。
そもそもあのシーン……………

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糺日本書紀 part15

part13では、天武天皇の正体は郭務宗(カクムソウ)の可能性がありそうだ、ということで終わってましたね。
ですけど実はカクムソウって藤原鎌足に比定されていまして、それはそれで納得できてしまうので事は単純じゃないんです。もちろん余豊璋(ヨホウショウ)=鎌足説も捨てきれませんが。

まず、鎌足と中大兄皇子(のちの天智天皇。けど天智の時代はまだ天皇の呼称がなかったので本来は天智大王)が出会ったきっかけは、中大兄が蹴鞠をしていたら靴が飛んでいってしまい、それを鎌足が拾って中大兄に履かせてあげたことになってます。もちろん作り話ですけど。

鎌足ってナニ者?
だって、皇太子ということになっている人が遊んでるすぐ近くにいられること自体、鎌足はフツーの人じゃないわけで、日本書紀の編者もそれは隠そうとしていません。

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糺日本書紀 part14

天智・天武の両天皇の正体については調べるほどにワケが判らなくなり、判っていることは残された文献に史実はない、ということだけでしょうか。
なので今回は目先を変えて古代の道”東山道(とうさんどう)”についてです。
中でも美濃と信濃を隔てる難所”神坂(みさか)峠”については以前から疑問に思っていたことがあり、それがこのたび現地の研究者らに取材してやっと謎が解けました。

古代に整備された七つの官道、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道を道の名前と思ってましたが、行政区のことでして、その行政区を貫く街道が今はそのまま道の名前として呼ばれているわけだったんですね。

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糺日本書紀 part13

高句麗の莫離支王蓋蘇文(がいそぶん)の長男である男生(だんしょう・ナンセム)の裏切りと唐の強大な軍事力によって高句麗が滅ぼされた(ことになっている)668年からから遡ること26年前の642年。
高句麗の首都平壌(ピョンヤン)で若かりし蓋蘇文がクーデターを起こして栄留王を殺害し、代わりに宝蔵王を擁立したことで蓋蘇文は実質上の独裁者となり、自ら莫離支王(または大莫離支)を名乗りました。
このクーデターで唐は怒り心頭に発し、唐の蓋蘇文憎しはここから始まりまってます。

それで前回の続きの高句麗滅亡なんですが…………

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糺日本書紀 part12

天武天皇の正体が高句麗の蓋蘇文(がいそぶん)である可能性は否定してませんが、かといって納得できることばかりではありません。
そこで、埼玉県日高市に鎮座する高麗(こま)神社の高麗文康宮司に尋ねてみました。
というのも高麗家の第60代目当主である高麗宮司の著書「高麗王 若光物語」はフィクションですが、史実に基づいたであろう内容の超問題点が見事に描かれているからです。
以前、参拝に伺ったときは年に一度の例大祭当日でお忙しそうでしたし、かといって名古屋からは遠いのでその後は行くことができず、それで電話してみたところ親切に答えてくださいました。
で、その超問題点なんですが、660年に百済が新羅・唐連合に滅ぼされ(といっても王室が崩壊しただけで、国民が壊滅的な被害を受けたわけではないので地方の勢力は温存されていた)、それから間もない668年に今度は高句麗が唐によって滅ぼされてしまいましたが、その発端となったのが……………

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糺日本書紀 part11

part9でお話しした万葉集の歌についていくつかの質問が来てますので、その関連話題をいくつかお話しします。
皆さん、万葉集に興味をお持ちなんですね。ボクは才能がないので歌がさっぱり理解できません。

さて、香久山・耳梨(耳成)山・畝傍山をそれぞれ天智天皇・天武天皇・額田王(ぬかたのおおきみ)の三角関係に例えてうたった歌は、万葉集の巻一の13番歌です。
「香久山は 畝火雄々(をを)しと 耳梨と 相争いひき 神代より 斯(か)くにあるらし 古昔(いにしえ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を あらそふらしき」
んー、解説してもらわないと、未だによく理解できない。

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糺日本書紀 part10

part9の続きです。
新羅の武烈王になった金春秋は、若かりしころ蹴鞠をしていて金ユシンの妹の文姫(ぶんき)と出会いました。まぁ作り話ですけど、歴史上はそういうことになってます。
そして金春秋と文姫の間にはやがて新羅の文武王(ぶんぶおう)なる法敏が生まれるんですが………………

蹴鞠をしていて金春秋の衣装の紐が切れたとき、なぜ姉の宝姫(ほうき)は金春秋の前に姿を現さなかったのでしょう。
それは宝姫がそのときすでに妊娠していたからと推測されまして、金春秋と文姫の子になっている法敏は実は姉の宝姫が生んだ子のようなんです。なので父親は金春秋ではありません。

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糺日本書紀 part9

日本書紀では中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣(藤原)鎌足との出会いが、中大兄皇子が蹴鞠をしていたら靴が飛んでいってしまい、それを鎌足が拾って中大兄皇子に履かせてあげたことがきっかけだったんだとさ。
まぁこの話は100%フィクションなんですが、中大兄は皇太子ということになっているので、蹴鞠をしている場へ近付くことができた鎌足はフツーの農民ではないですよね。

この創作話、実は新羅にも同じようなものがあるんです。
天智・天武と同じ時代のこと、新羅に武烈王の金春秋という武将がいました。
彼は新羅の高官であった金ユシンと蹴鞠をしていたところ、金ユシンが金春秋の衣装を踏みつけてしまい、衣装の紐が切れてしまったんです。

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「糺日本書紀 part8」

数霊シリーズ第8弾の「諏訪古事記」にも書きましたが、天武天皇は日本書紀によると天武15年に亡くなっていることになっていますが、おそらく天武11年に天皇の立場を追われて逃げたか、あるいは殺されているはずです。
天武15年は”朱鳥(あかみとり)”という元号になっていますが、判りにくいので天武15年のままでいきますね。
日本書紀の天武期を読むと壬申の乱以外はあまり面白くなく、それが天武11年まで続くんです。
ところが天武11年の途中から、”あんた、どないしたねん”と思うほど内容が変わりまして、つまり天武天皇から他の誰かに入れ替わったことを日本書紀の編者は伝えてくれているんですね。

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