投稿者「数霊屋総本家」のアーカイブ
「神岡は高天原」
まるでボクがノーベル賞を受賞したようなお祝いメールがたくさん届きまして、ありがとうございます。
ニュートリノとスーパーカミオカンデに魅せられ、それらをスピリチュアルと結びつけたり(遷都高天原)、μニュートリノを名乗ってスーパーカミオカンデTシャツを着続けてきたので、お祝いメールやお酒をいただくことができました。
スーパーカミオカンデのプリントは、Tシャツやブルゾン、それにカバン等の合計が50枚を超えてますが、すでに第8弾の計画を練っています。
スーパーカミオカンデは神岡鉱山の地下深くにあり、神岡の町は国道41号線沿いにあるため、個人的に国道41号線を「ノーベル賞街道」と呼んでいます。
そのことについては各地の講演会でもお話ししてまいりましたし、「遷都高天原」の71ページにも関連したことを書きました。
ところが本日夕方の全国ニュースで国道41号線が「ノーベル街道」と呼ばれています、って。
「祝、ニュートリノ振動」
ニュートリノ振動のノーベル物理学賞受賞、おめでとうございます。
そろそろニュートリノ関係が受賞すると思ってましたので、自称スーパーカミオカンデ親衛隊隊長として、今夜はお祝いです。
ちょうどスーパーカミオカンデTシャツの第7弾も完成したところでしたので、あぁめでたいメデタイ御目出度い。
「諏訪古事記 番外編その1」
もう神事はやらなくていいと思ってましたし、やらないつもりでした。
やりたい人がたくさんいるから、その人たちにやってもらえばいいじゃんか、って。
アナトリアの女神が諏訪の山で待っているそうで、ミシャグチの裏山だとか。
尖った大きな磐座のようで、真澄と蜂蜜その他を持っていくようにって。
真澄は諏訪のお酒じゃんか。
磐座って、どこだろう。
諏訪には名のある磐座があくさんあるけど、ミシャグチの裏山ってことは小袋(おふくろ)石か、それとも守屋山?
あれ、思い出した。あれはもう7年も前のことなのに、まだ生きた話なのか?
諏訪のうみ
めぐりめぐりてナニ思う…………
「大阪整体教室」のご案内(10/6 21:26 更新)
大阪です。
他の地域だとアホくさいオヤジギャグを言っても、皆さんやさしいので面白いフリをして笑っていただけるんですが、大阪の場合そうはいきません。
話にオチがなくてもダメ。
ですから大阪でギャグを言うときにはヒネリを加えなければならず、お陰様で鍛えていただいております。
大阪人の肩甲骨は他の地域の人と違いがあるのでしょうか?
さて、今回の教室は5級コースですからまったくの初心者さんでも心配なく参加していただけます。
主なポイントは肩甲骨(健康骨)の可動性、大脳の緊張緩和、目の疲れへの対処や眠りの質の向上などになります。
詳しくは「骨の妙味」コーナーをご覧ください。
「大阪整体教室」の予告
大阪での会場が住之江区に決まりましたので、12月19日(土)のスタートで5級コースを始めることになりました。
日程などの詳しい内容は数日中にお知らせしますので、皆様のご参加をお待ちしております。
「諏訪古事記 その2」
東京からメールが来ました。今回は短いです。
「あわのすわ(阿波の諏訪)」
それだけ。
そして次も短かった。
「そそうの神よ これ如何に」
短いのは助かりますけど、ナニ言ってんでしょう?
このようなファクシミリやメールは今まで何百回とありましたが、こちらの頭が悪いので理解するまでに数年かかります。
「すすきの穂
たずさえ参れよ 諏訪の地へ
長き時空の旅の果て
いよよ始むる和睦の神事
…………」
(「弥栄三次元」317ページ)これなんて2008年に受け取っていますが、今になってやっと理解できたこともありまして、だとしたらまだ理解できてないこともあるはずだから、深く理解する前に死んでしまうことでしょう。ご臨終です。さようなら。
「東京数霊とつくば猫」
10月18日の東京数霊セミナー&ワークは52歳になった翌日なので、久しぶりに「52」の話をしてもいいかな、なんて考えています。それとも「666・666」にしましょうか。
「諏訪古事記 その1」
タケミナカタは実在した人物なのでしょうか?
というのも、出雲から追われて諏訪の地へ逃げてきた(ことになっている)タケミナカタの名前は古事記にしか見られず、日本書紀には出てきません。
これは、日本書紀が意図的にタケミナカタの存在を排除したからなのか、古事記がありもしない話を何かの象徴として書き入れたからのか?
古事記にしたって712年に完成した(ことになっている)初版?に最初からタケミナカタが登場していたのか、後になってタケミナカタの話を挿入したのかも判りません。
というのもタケミナカタの父とされる大国主命の系譜にタケミナカタは入っておらず、そうなるとやはり後からタケミナカタを作り上げて古事記に挿入したのか、それとも系譜を改ざんしてタケミナカタを排除したのか、それも謎です。
「遷都信濃国 vol.29」
最近は本題から話が逸れすぎていましたので、いまいちど天武天皇による陪都信濃国関連の資料を整理してみます。
まず、天武天皇が陪都に先だって行宮を置いたとされるのは「つかまの湯」と呼ばれていまして、日本書紀には「束間温湯」として出てきます。
日本書紀によれば、天武天皇14年(685年)10月に
・軽部朝臣足瀬(かるべのあそんたるせ)
・高田首新家(たかだのおびとにいのみ)
・荒田尾連麻呂(あらたおのむらじまろ)
ら3人を派遣して束間温湯に行宮を造営させたとのことですが、翌年の天武天皇崩御によって信濃国の陪都建設計画は中止になりました。
陪都を設けることは唐に倣ったようで、唐では長安を首都としつつ洛陽を陪都にした複都制を実施しています。